昭和49年12月31日 朝の御理解



 朝の御理解 第39節 
 「此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。」

 家業そのものを行とする。それが果たしてその、行になっておるかどうかと云う事を、反省して見なきゃならない。不平不足があっては、苦行にはなっていない。もうこげな仕事はもう、もう孫子の末までさせるもんじゃないと言った様な考え方の行では、行ではない。その行の中に、いよいよ神様のお働きを感じる。その行の中にその行の出けれる条件が足ろうておると云う事を、先ず分からせて貰い、お礼を申し上げての家業でなからなければ、私は行ではない。
 この方の行は火や水の行じゃない、家業の行と仰るその家業の行そのものを、だから有り難くいかに頂くかと言う事にあるのです。勿論その中には楽しい喜び。やっぱりその楽しく取り組ませて貰うという。それで初めて私は行と、家業の行と言う事が言えると思うです。ですからその内容が有り難いというものでなからなきゃならないと云う事です。此方の道は、喜び一つで開けた道じゃから、喜びには苦労はさせんとこう仰る。その喜びいっぱいの家業。その家業の中に様々起きて来るその問題。だからその問題そのものも、有り難い、有り難いで受けて行くという生き方。
 中々心から有り難いと思えない事もあるのですけれども、それを矢張りそれが有り難、く受けて行くその稽古です。そこに私は修行があると思う。もうそれに言うならば金光様の御信心は極まったと言うても良いのです。銘々が頂いておるその家業そのものをです、いよいよ有り難いものに。まあ言うならば、一切を喜びで受けて行くという、そこに焦点を置いて、日々の信心生活を進めて行かなければならん。
 今ちょっとあの他に探し物があったから、引き出しを開けたら、いつか頂いた御理解でしょう。この丁度一年前にこれは、あの頂いたものじゃないかと思うんです。あの福岡の幹夫先生から書いて頂いておる。今の金光様の御唄が、とこの私が紙に書いておるものが出て来た。成すといえ成し得る条件恩恵のなくば、成しえず何一つしてという。成すといえ成し得る条件恩恵のなくば、成しえず何一つとして。自分がする自分がこういう仕事をすると言っておるけれども。
 それを成しうる条件というものが、なかったならまたその恩恵を受けてなかったら、何一つとして出けないのだと言うのです。私がするのじゃない。例えばお百姓をしておる人が、例えばその、鍬を持てるという事自体が、恩恵を受けておるのです。鍬を持てれる条件というものが、言うなら、健康が許されておるから出来るのです。もうそこから、私は有り難いというものは出発するんだと思うですね。今日もこの様にして御用が出けておる。今日もこうして御用が出けておる。
 その事に有り難い心が生まれて来る様な信心を頂かなければならん。畑に出させて頂いておる、鍬を持たせて頂いておる。例えばなら具合が悪くて休んでおったりしたんでは、畑に出らなきゃならんと思うても出られんのです。鍬を持とうと思うても、言うならば健康のおかげを頂いておらなければ持てんのです。そこからです、その家業の行というのが、有り難いものとなって来る訳です。またこれはこれもやっぱり、昨日の前に頂いた御理解だと思うです。こう言う事。
 人間は自分自身の幸福の為に、神の指導と監督を受ける事が必要ですと。そして神の栄光による幸福を受け、それぞれそれを人に伝え、神の名を神の力を広めるのですと(   )。ね。人間は自分自身の幸福の為に、神の指導と監督を受ける。例えば今日一日の御理解を元にして、その日の御用が家業が出ける。間違ったら言うならばお気付けを頂く。その位の信心をさせて貰わなければ、本当の神の栄光を身に受ける事は出来ないと言うのです。これならば全く人間は自分自身の幸福の為にとある様に。
 これは幸福が必ず約束されるそういう生き方。神の監督の元にまた神の指導の元に、その一日の御用がなされるなら。言うならば家業の行が本当の意味において、家業の行という事の内容が足ろうて来るならば。こから生まれて来る、言うならばおかげ。神の栄光を一身に受けておる様な有難いものをです。それを、人にも伝えて行く。そこに神の名も広まる。神の力を広めて行くと云う事。初めて言うならば示現活動と云う様な働きが出けて来る様になるのです。
 私はこの「御理解39節」は、私は内容が結局喜び、有難いと云う事にあるんだと。これはいつかも申しましたが。「御理解第39節」と言うのですから、三九ですからもう「御理解39節」は三九です有難いです。有難う御座いますと云う事がです、この御理解の中心だという風に申しますね。だから、本当に今日一日お使い回しを頂いて有り難いと、もう心の底からね、お礼の言えれる日々でなからなければならないと云う事なんです。本当にこんな分の悪いお仕事はない。
 もうこんな馬鹿んごたるお仕事はない。もう只きつかばかり、金は儲からんと云う様な事がいくら繰り返されてもです。神の栄光と云う様な事にはなって来ないのです。神の栄光を受ける事は出けない。神の栄光を受けると云う事が、そのまま人間の幸福だと言うのです。そこに、神様の働き、神様の力を日々確認して行くのですから、勿論確信が生まれて来るですから。その確信をです、人にも伝えて行くというのがです、いよいよ神の力と神の名を現して行くと云う事になる。
 それが現在合楽で言われておる、合楽示現活動なんですが。もう今日は49年の一番最後の一日としてです。果たして一年間を振り返ってみて、どれほど充実した有り難いという家業の行が出けただろうか。不平不足の方が多い事はなかったろうか。充実した信心というのは、一日をいかに有り難いという応えを持って、結ぶ事の出けれるかと云う事だと、私は思うです。そういう意味で、私自身思うんです。本当に例えば五体が皆さんの様に健康じゃないですけれども。
 おかげで御用には差し支えない。ですからもう本当に私はもう成す、ここで御用を成しうる所の条件というものが何時も足ろうておる。その事に対して本当に有り難いと思う。これはまあ若いから仕方がないですけども、毎朝の奉仕でも、幹三郎と直子が必ず出て来てくれますけれども。三十分間の間ここで控えておる間、もう眠うして応えんごたる風。まあそれでも、一生懸命あげん勤めてくれますから、それがまあ彼達の修行になっておると思いますから。まあお礼を申し上げるのですけれども。
 もう一番一日で有り難い時をです。一番言うならば体の調子の良い時、言うならばコンデーションと言いますか。それが私はこの朝であり、朝参りの時でなからなきゃいけないと思うです。眠うしてきつうしてと云う様な事じゃいけん。ですから御神前に向かうたら、一番体の調子も心の調子も良い時ですから、神様への祈りを捧げるにしても、もう本当にスーッとこう、入って行く様なおかげを頂いて、神様との交流が出ける。それが今日一日の原動力ともなってです。御用が愈々有り難く受けられるのです。
 朝気分が悪かったら、もう一日気分が悪いと申します。ですからその朝の一番大事な時間をです。一番素晴らしいコンデション、を自分で工夫させて貰って。そして神様との交流を計らせて貰う。その心の調子を持って、その有り難いという心を持って、いよいよ今日も銘々の御用に取り組ませて頂く。そこからです私は有り難い。もうとにかく金光様の御信心は、一切全てをです、有り難い、有り難いで受けて行くという生き方。もうこれ一つを覚えればいいのですから。
 その有り難いには、もう苦労はさせんと仰る事が、神の栄光を受けるからなのです。他の事を考える事はいらん。その事だけに焦点を。ところが嫌な問題やら、分の悪い仕事やらと云う事に直面する時です。私共の心の中に有り難いというものがあればです。言うならば、有り難い前には暑いもなからねば、寒いも感じない程しの功徳があるのです。どんなに腹の立つ様な問題であっても、有り難いという時にはもう腹が立たないです。腹が立ったりイライラしたり。
 不平不足が出る時にはです、もう愈々心の調子が狂うておる時なんですから。もしそういう時に、あっこれは自分の心の調子が狂うておる時だと、まず調子を替えて。そしてその事に当たらせて貰うというぐらいな精進も、そこに精進しきって行ったら良いのです。いわゆる、朝のいわば御祈念の時間。朝参りの時間を愈々有り難いものにする、工夫を何とかしなければいけません。
 お広前についたら、もう只よっついて眠ってしまうと云う様な事ではなくて、もう一番調子の良い時が。この朝の5時なら5時の御祈念の、あの時間の時が一番自分の心も、体も調子の良い時だという風にです、工夫して来なければいけんです。私は何時も申します様に、もう私が3時半から4時までの間が、一番私の心の調子の素晴らしい時なのです。もう有り難いでいっぱいの時なのです。
 その有り難いいっぱいで、一時間なら一時間の御祈念をさせて貰う。その有り難いものが、私の心の中に充満する。それが今日一日の御用をです、もうこよない有難いものにするのです。だから一日を締めくくった時にです。今日も結構な御用にお使いまわしを頂いて有り難いと云う事になるのです。皆さんの場合でも同じ、そういう生き方をいよいよ求めての信心。一年間を締めくくってみて。
 そういう365日であらなければならないのに、果たしてどの様な一年間だっただろうかと振り返らせて頂いて。今日という今日はひとつ一年間の、本当に心からのお詫びをさせて貰い。又はお礼を申させて貰い。そして新たな年を迎えさせて頂くと云う事が。今日の言わば除夜祭に頂けれる様なおかげを皆さんと一緒に頂きたいと思います。
   どうぞ。